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九条院家に待望の跡継ぎが誕生した。
それはもちろん慎一郎義兄さんと夏実姉さんの赤ちゃんで、男の子。バリバリのキャリアウーマンだった姉さんのことだから、さぞかし子供も遅いのだろうと言われていたけれど、姉さんは結婚二年目にしてあっさりと妊娠し、何の躊躇もなく仕事を休んで出産・育児に専念している。もっとも産休ぎりぎりまできっちりと働いていたし、あと1カ月半もして産休が明けたら育児休暇も取らずにすぐに会社に戻りそうな勢いだけれども。
生後1週間ちょっとの赤ちゃんは、本当にかわいい。最初に病院で見た生まれたばかりの頃は、赤くて黒くて手放しでかわいいとは言い難かったけど、退院した今は目もぱっちりと開いて、人の声のする方を一生懸命目で追っている。頭や手足を一生懸命動かす様子も、ちょんと突くときゅっと握ってくれる小さな掌も、ママのおっぱいを飲むときの必死な様子も、本当にこの世の中にはこんなにかわいいものがあるのかと感動するくらいだ。
抱っこをするのはまだぐにゃぐにゃしていて重くてちょっと怖いけれど、それでもその温もりに思わず抱きしめたくなる。もちろん身内の贔屓目もあるかもしれない。でも、あたしも今すぐ赤ちゃんが欲しい!なんてちょっと思ってしまう。
……のだけれども。
先ほどまで触れていた温もりと重みを思い出しつつ、「じゃ、また来るね」と姉さんの寝室を出て扉を閉めようとすると、廊下から向こうからフットマンの瞬くんが、赤ちゃんのための衛生用品を運んできた。私と交代に部屋に入る時の、その顔の嬉しそうなこと!そういうのを見る度に、あたしはなんとなく面白くない気分になる。
義兄さんと姉さんが自分の子供を一番かわいがるのはわかる。自分の子供だもの。だけど、このお屋敷全体が赤ちゃんムードになっていて、お屋敷に関わる全員が赤ちゃんに魅了されてしまっている。考えることは皆、赤ちゃんとその両親である義兄さん、姉さんのことでいっぱいだ。
あたしだってそりゃあ、赤ちゃんのことはかわいい。生まれてきてくれたことに感謝するし、かわいがってあげたいと思うし、実際赤ちゃんのことを考えている時間も、かなり長い。
でも、そんなのとは比べ物にならないくらい、この屋敷の雰囲気は赤ちゃんナイズされてしまっている。
あたしはもともと外部の人間だ。お嫁入りした姉さんの付録みたいな形で、このお屋敷に来た。上流階級のことなんて全然分からず、それでもこのお屋敷に関わる人たちの恥にならないように、立派なお嬢様になろうと一生懸命やってきたのだ。大変だったけれどもみんながあたしの応援をしてくれたから、優しく見守ってくれたから、やってこられたこと。
それなのに、本当のこの家のお坊ちゃまが登場した途端に、掌を返したように、あたしのことすっぽりと忘れてしまうんだもの。
「ちぇーっ」
あたしは廊下に誰もいないのを確認すると、お嬢様としてあるまじき行為ではあると思いつつも、廊下を軽く蹴りあげた。するとその弾みで、室内履きがポーンと飛んでいってしまった。
しまった、と思ったところで、廊下の突き当たりに落ちた室内履きを、横道から現れた誰かが拾った。
「あっ!」
樫原さんだった。片足だけ素足で蹴りあげているところを、一番見られてはいけない人に見られてしまった。
雷が落ちる、と身構えた。お嬢様らしくないと、18にもなって何をしているのかと。でも降って来たのは、樫原さんが嫌味を言う時のものとはだいぶ違う、ずっとずっと優しい声だった。
「しゅんお嬢様」
恐る恐る見上げると、樫原さんは眉を下げてちょっと困った顔をしている。そして、姉さんの寝室から少し離れた場所にあたしを手招きすると、ひょこひょこと着いていったあたしの下にかがみこんで室内履きを履かせてくれた。
「ひょっとして寂しくていらっしゃるのですか?」
……図星だ。私は視線をそらすと、口をとがらして強がってみる。きっとあたしの気持ちなんて、樫原さんにはお見通しなんだろうけど。
「別にそういうわけじゃないわ。おかしい?」
「お嬢様、それでは赤ちゃん返りですよ」
樫原さんはくすくすと声に出して笑った。あたしは聞きなれない言葉に、樫原さんの方に向き直って、聞きなおす。
「赤ちゃん返り?」
「ええ、弟や妹が生まれたばかりの小さいお兄さん、お姉さんが、母親に構ってもらいたくて赤ちゃん返りしますね」
指摘された言葉に、あたしは一気に恥ずかしくなった。きっと顔が真っ赤だ。だって、あたしのやっていることは、ほんの小さな子供と一緒なんだもの。
そんな様子を見た樫原さんは、あたしの頭をふわりと撫でてくれた。
「今まで慎一郎様も奥様も、お子様がいらっしゃらない代わりにお嬢様をかわいがっていらっしゃいましたからね。仕方のないことでしょう」
慎一郎様はご兄弟もいらっしゃらないし、奥様においてはしゅんお嬢様はたった一人の庇護するべき存在でしたからね、と樫原さんは続ける。
「私たちも過度にお嬢様に期待しすぎていたのは、と反省いたしております」
あたしは何も言えなかった。そうなのだ、別に今まで誰もあたしのことなど気にしていなければ、こんなにも辛い思いをすることもなかったのかもしれない。それが、この家に来た途端、誰もがあたしのことを蝶よ花よと甘やかすものだから、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていたのだ。
ところが、急にその矛先が赤ちゃんに向いてしまったものだから、あたしは単純に嫉妬していただけなのである。
「でもお嬢様、ご安心ください」
樫原さんが、少しかがんで、あたしに目線を合わせてくれる。
「私は、しゅん様のことを忘れたことはございません。お坊ちゃまももちろんかわいいですし大切な存在ですが、あたしにとってはしゅん様が一番ですよ」
きっとあたしは、今度は別の意味で赤面しているであろう。だって、樫原さんのあたしに対する『一番』は、きっと赤ちゃんや小さな子供と同列ではないだろうから。それは子供や主人に対しての好意という意味合いとは違うだろうから。
「……私は赤ちゃん返りするような、子供よ」
拗ねるように小さくつぶやいた言葉にも、樫原さんはすぐに反応してくれる。
「そんな風に素直に感情を表す貴方が、かわいいのですよ」
樫原さんは、偽物ではない優しい笑みをその顔にのせている。それは樫原さんの本心だ。
樫原さんが己の主人である慎一郎義兄さんの後継者を、大切に思わないわけがない。だから、その赤ちゃんよりもということは、きっとそういう意味なのだろう。
あたしはほうっと息を吐いた。そんな風にあたしの心の殻を簡単に破って、あっという間に安心させてくれる樫原さんが、あたしも好きだ。
「さて、ちょうどアフターヌーンティの時間ですし、あずまやでお茶でもいかがですか?」
執事の顔に戻った樫原さんは、「今日はお天気が良いですから、きっと気持ちも晴れると思いますよ」とあたしを促す。今日は樫原さんも一緒に席について貰おう。そして、二人で楽しいお茶の時間を過ごしたいと思った。
それはもちろん慎一郎義兄さんと夏実姉さんの赤ちゃんで、男の子。バリバリのキャリアウーマンだった姉さんのことだから、さぞかし子供も遅いのだろうと言われていたけれど、姉さんは結婚二年目にしてあっさりと妊娠し、何の躊躇もなく仕事を休んで出産・育児に専念している。もっとも産休ぎりぎりまできっちりと働いていたし、あと1カ月半もして産休が明けたら育児休暇も取らずにすぐに会社に戻りそうな勢いだけれども。
生後1週間ちょっとの赤ちゃんは、本当にかわいい。最初に病院で見た生まれたばかりの頃は、赤くて黒くて手放しでかわいいとは言い難かったけど、退院した今は目もぱっちりと開いて、人の声のする方を一生懸命目で追っている。頭や手足を一生懸命動かす様子も、ちょんと突くときゅっと握ってくれる小さな掌も、ママのおっぱいを飲むときの必死な様子も、本当にこの世の中にはこんなにかわいいものがあるのかと感動するくらいだ。
抱っこをするのはまだぐにゃぐにゃしていて重くてちょっと怖いけれど、それでもその温もりに思わず抱きしめたくなる。もちろん身内の贔屓目もあるかもしれない。でも、あたしも今すぐ赤ちゃんが欲しい!なんてちょっと思ってしまう。
……のだけれども。
先ほどまで触れていた温もりと重みを思い出しつつ、「じゃ、また来るね」と姉さんの寝室を出て扉を閉めようとすると、廊下から向こうからフットマンの瞬くんが、赤ちゃんのための衛生用品を運んできた。私と交代に部屋に入る時の、その顔の嬉しそうなこと!そういうのを見る度に、あたしはなんとなく面白くない気分になる。
義兄さんと姉さんが自分の子供を一番かわいがるのはわかる。自分の子供だもの。だけど、このお屋敷全体が赤ちゃんムードになっていて、お屋敷に関わる全員が赤ちゃんに魅了されてしまっている。考えることは皆、赤ちゃんとその両親である義兄さん、姉さんのことでいっぱいだ。
あたしだってそりゃあ、赤ちゃんのことはかわいい。生まれてきてくれたことに感謝するし、かわいがってあげたいと思うし、実際赤ちゃんのことを考えている時間も、かなり長い。
でも、そんなのとは比べ物にならないくらい、この屋敷の雰囲気は赤ちゃんナイズされてしまっている。
あたしはもともと外部の人間だ。お嫁入りした姉さんの付録みたいな形で、このお屋敷に来た。上流階級のことなんて全然分からず、それでもこのお屋敷に関わる人たちの恥にならないように、立派なお嬢様になろうと一生懸命やってきたのだ。大変だったけれどもみんながあたしの応援をしてくれたから、優しく見守ってくれたから、やってこられたこと。
それなのに、本当のこの家のお坊ちゃまが登場した途端に、掌を返したように、あたしのことすっぽりと忘れてしまうんだもの。
「ちぇーっ」
あたしは廊下に誰もいないのを確認すると、お嬢様としてあるまじき行為ではあると思いつつも、廊下を軽く蹴りあげた。するとその弾みで、室内履きがポーンと飛んでいってしまった。
しまった、と思ったところで、廊下の突き当たりに落ちた室内履きを、横道から現れた誰かが拾った。
「あっ!」
樫原さんだった。片足だけ素足で蹴りあげているところを、一番見られてはいけない人に見られてしまった。
雷が落ちる、と身構えた。お嬢様らしくないと、18にもなって何をしているのかと。でも降って来たのは、樫原さんが嫌味を言う時のものとはだいぶ違う、ずっとずっと優しい声だった。
「しゅんお嬢様」
恐る恐る見上げると、樫原さんは眉を下げてちょっと困った顔をしている。そして、姉さんの寝室から少し離れた場所にあたしを手招きすると、ひょこひょこと着いていったあたしの下にかがみこんで室内履きを履かせてくれた。
「ひょっとして寂しくていらっしゃるのですか?」
……図星だ。私は視線をそらすと、口をとがらして強がってみる。きっとあたしの気持ちなんて、樫原さんにはお見通しなんだろうけど。
「別にそういうわけじゃないわ。おかしい?」
「お嬢様、それでは赤ちゃん返りですよ」
樫原さんはくすくすと声に出して笑った。あたしは聞きなれない言葉に、樫原さんの方に向き直って、聞きなおす。
「赤ちゃん返り?」
「ええ、弟や妹が生まれたばかりの小さいお兄さん、お姉さんが、母親に構ってもらいたくて赤ちゃん返りしますね」
指摘された言葉に、あたしは一気に恥ずかしくなった。きっと顔が真っ赤だ。だって、あたしのやっていることは、ほんの小さな子供と一緒なんだもの。
そんな様子を見た樫原さんは、あたしの頭をふわりと撫でてくれた。
「今まで慎一郎様も奥様も、お子様がいらっしゃらない代わりにお嬢様をかわいがっていらっしゃいましたからね。仕方のないことでしょう」
慎一郎様はご兄弟もいらっしゃらないし、奥様においてはしゅんお嬢様はたった一人の庇護するべき存在でしたからね、と樫原さんは続ける。
「私たちも過度にお嬢様に期待しすぎていたのは、と反省いたしております」
あたしは何も言えなかった。そうなのだ、別に今まで誰もあたしのことなど気にしていなければ、こんなにも辛い思いをすることもなかったのかもしれない。それが、この家に来た途端、誰もがあたしのことを蝶よ花よと甘やかすものだから、いつの間にかそれが当たり前になってしまっていたのだ。
ところが、急にその矛先が赤ちゃんに向いてしまったものだから、あたしは単純に嫉妬していただけなのである。
「でもお嬢様、ご安心ください」
樫原さんが、少しかがんで、あたしに目線を合わせてくれる。
「私は、しゅん様のことを忘れたことはございません。お坊ちゃまももちろんかわいいですし大切な存在ですが、あたしにとってはしゅん様が一番ですよ」
きっとあたしは、今度は別の意味で赤面しているであろう。だって、樫原さんのあたしに対する『一番』は、きっと赤ちゃんや小さな子供と同列ではないだろうから。それは子供や主人に対しての好意という意味合いとは違うだろうから。
「……私は赤ちゃん返りするような、子供よ」
拗ねるように小さくつぶやいた言葉にも、樫原さんはすぐに反応してくれる。
「そんな風に素直に感情を表す貴方が、かわいいのですよ」
樫原さんは、偽物ではない優しい笑みをその顔にのせている。それは樫原さんの本心だ。
樫原さんが己の主人である慎一郎義兄さんの後継者を、大切に思わないわけがない。だから、その赤ちゃんよりもということは、きっとそういう意味なのだろう。
あたしはほうっと息を吐いた。そんな風にあたしの心の殻を簡単に破って、あっという間に安心させてくれる樫原さんが、あたしも好きだ。
「さて、ちょうどアフターヌーンティの時間ですし、あずまやでお茶でもいかがですか?」
執事の顔に戻った樫原さんは、「今日はお天気が良いですから、きっと気持ちも晴れると思いますよ」とあたしを促す。今日は樫原さんも一緒に席について貰おう。そして、二人で楽しいお茶の時間を過ごしたいと思った。
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